150年の時間軸と、
「静かな責任」

松場 忠

株式会社石見銀山群言堂グループ 代表取締役

薩摩会議は、モヤモヤする。 参加中も、終わってからも、そのモヤモヤは何かをずっと考え続けていた。
最初は、3日間というカンファレンスとしては異様に長く、情報過多な場だからだと感じていた。しかし、思考を巡らせるうちにふと気づいた。そのモヤモヤの正体は、別のところにある。 それは、「150年後の世界に私たちは何を残すか?」という問いが、単なるお飾りではなく、本当に問われているテーマだからだ。
自分の人生だけでは辿り着けない問いに向き合うことは、地味にエネルギーを使う。 なぜなら、それは来年や再来年のビジネス課題の解決ではなく、明らかに「誰かに託すこと」を前提とした問いだからだ。
薩摩会議のセッションは、一見ややこしい。 私自身、「地域経営」や「文化資本」をテーマに登壇したが、一方では「境界線」や「既成概念」といった抽象度の高いテーマもある。議論は真剣そのものだが、もしかすると着地すら求めていないのではないか、と感じる瞬間すらある。 しかし、それくらい「よくわからないもの」を真剣に話し合っているからこそ、意味があるのだ。
日常の仕事は、何かの答えを手がかりに行動し、日々成長を感じられるようにできている。 一方で、右肩上がりの成長が本当に正しい姿なのか? そんな根本を問われる時代でもある。 「こうすればいい!」と断言できる社会から、それすらも疑いながら行動する社会へ。その変化の中で、薩摩会議で設定されている「150年」という時間軸はとても秀逸であり、同時に残酷だ。
その時正しいと判断した行動が、150年後も正しかったと言えるのかという疑い。 さらに、その疑いは自分自身では軌道修正できず、次世代に「ケツを拭いてもらう」ことになるかもしれないという可能性。 ここには、現代社会の当事者が普段気づかないふりをしている「静かな責任」がある。専門化と分断が進んだ社会の奥に潜む、明確化されていないけれど、確実に存在する連続性のプレッシャー。
それは、とても重い。だって、自分ひとりでは決して解決できなさそうだから。
そんな重圧を感じる場に、私は中3の息子を連れて行った。 建前としては、九州・薩摩特有のおおらかな空気感と勢いがある場を体験させるため。そして、高校進学と同時に町を離れ寮生活を始めることになる息子に、世の中にはいろんな大人がいるんだよと伝える、父親としての誕生日プレゼントのつもりだった。 けれど今思えば、私自身の「予防線」として、無意識に彼を連れて行っていたのかもしれないと感じるようになった。
自分たちの代だけで完結させなくていい。その連続性を、隣にいる息子に見出したかったのだろうか。
結果として、それは正解だった。 ひょんなきっかけで「既成概念」のセッションに登壇させてもらった息子は、すっかりその熱に感化されていた。 家に帰るなり、小6の妹に向かって「お前、それ既成概念で考えてない?」とウザ絡みをし、地元のおじさんに薩摩会議の様子を熱く語っている。
その姿を見たとき、私のモヤモヤはふっと晴れた気がした。 私たちが感じた「解決できない苦しさ」や「静かな責任」は、こうして次世代へ、形を変えて引き継がれていくのだと実感できた気がするからだ。
150年という時間軸の設定からくる、「静かな責任」。 薩摩という地で生み出される熱源からは、温かさとともに、鋭い刃のような問いが突きつけられている。薩摩という革命を起こした辺境の地だからこそ。 けれど、その刃を受け止める覚悟と、次世代へ託す諦めを持てたとき、本当の意味で未来へ繋がっていくのだと思う。